
引用spettegolando
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
コルセットからの解放やパンツスタイルの普及など、これまでファッションを通じて女性の自由を確立してきた背景には「フェミニズム」が大きく関係しています。
女性のファッションは、時代によって、その時の社会的な抑圧とそれに対する反発、また伝統と革新のせめぎ合いなどによって進化してきました。
今回は、歴史の中の女性解放運動の流れと、その流れと共にデザインによって女性開放に寄与してきたデザイナーたちを紹介していきます。
目次
フェミニズムとは
フェミニズムの先駆者といわれる社会思想家のメアリ・ウルストンクラフト 引用mymodernmet
フェミニズムとは、男女の社会的・政治的・経済的平等を目指す思想や運動のことです。
近年は女性だけでなく、多様なジェンダーの解放なども主題になっています。
根本的には、性別によって役割を限定されるのではなく、みんなが自由に生きられるような社会を目指すものです。
ただ現代は、フェミニズムと一言で言ってもアプローチや課題意識は様々ともいわれています。
また、フェミニズムの歴史で言うと、「第1波〜第4波」として区別するのが一般的です。
今回は、その進化と共に女性のファッションの変革も見ていきましょう。
フェミニズムの起源
19世紀の女性を描いた映画「エマ」(1996年) 引用osharetecho
フェミニズムの歴史は19世紀にまで遡ります。
この時代の女性は、家庭の中にとどまるべき存在とされ、選挙権すら持っていませんでした。
“家庭の天使”と呼ばれることが名誉とされた一方で、社会での発言権はほとんどなかったというのが現状でした。
メアリー・カサット「母の愛撫」(1896年) 引用japantimes
学校教育の機会も、当時の女性にはほとんど与えられていなかったそう。
下層階級の女性は読み書きすら出来ない人が多く、上流階級の女性であっても、教育の目的はあくまで“良妻賢母”になるための教養を身につける程度。
19世紀の学校を描いた絵画 引用meisterdrucke
教会などがスクールを主催することもあったそうですが、この時代の女性たちは、“学問”に携わる機会そのものがほとんど与えられていなかったのです。
しかし産業革命以降、主に下層階級の女性たちが徐々に家庭の外に出て、「雇用主の元で働く」という労働スタイルが定着していくように。
それにより“人権”という文脈で、女性の地位向上を求める運動がおこっていきます。
第1波フェミニズム
女性の労働状況が生んだ人権意識
産業革命後のイギリスの工場 引用seishinkougaku
産業革命で工場が建てられ、「下層階級の女性たちは働かざるを得なくて外に出た」という経緯はありますが、男性と同じ労働環境に放り込まれた事で、彼女たちは初めて「自分たちの労働条件」に目を向けるようになりました。
当時は、男女関係なく労働者運動やストライキが頻発してた時代で、男性の労働者もこの頃はかなり過酷な状況にありました。
しかし、女性の労働者はさらに厳しい状況で、12時間以上も働いて収入は男性の半分〜3分の1以下だったり、性別を理由に昇進や技能向上のチャンスがほとんど無かったりなど…。
「家庭の補助的な収入源だから構わないでしょ?」という認識をされ、女性の労働力が軽視されていた状況が続いていました。
そんな状況に対し、「私たちは搾取されているんじゃないか?」という思考が芽生え始め、そして「労働者の人権」という問題意識が高まり始めたのです。
イギリスの女性社会政治同盟(WSPU)のメンバー 引用marxist
働いているにもかかわらず、社会の意思決定に関与することができない矛盾に多くの女性が気づき、やがて女性参政権を求める運動へと発展していきました。
つまり、最初は「生活のため」として受け入れていた労働が、やがて「この労働環境は果たして正当なのか」といった疑問を呼び起こし、「私たちにも社会を変える権利がある!」という人権意識の芽生えへとつながった、という流れです。
ブルーマーが広めたパンツスタイル
ルーヴル百貨店のカタログの一部(1874~1877年) 引用soen
1858年頃のアメリカの服装 引用pinterest
一方この頃、モードの世界では、まだまだ女性の服装といえばヨーロッパもアメリカも共通して、きついコルセットを締めて重いスカートを引きずって歩く…という、煌びやかながら健康的とはいえないファッションが主流でした。
そんな中アメリカで、アメリア・ブルーマーという人物が、「ブルーマー」と呼ばれるパンツスタイルを広めました。
アメリア・ブルーマー 引用smithsonianmag
アメリア・ブルーマーは、当時の女性の職業としてはかなり珍しい新聞編集者をしており、知的な分野で活躍する女性という数少ない存在でした。
エリザベス・スミス・ミラー 引用kvinnofronten
「ブルーマー」とは、もともとコルセットを締め、重たいスカートを着用することによる女性の健康への悪影響を懸念した医師、エリザベス・スミス・ミラーが考案したパンツスタイルです。
「ブルーマー」は、足首まで隠れる長いパンツを、やや膝丈スカートの下に重ねて着用するという、当時としては非常に革新的なスタイルでした。
「ブルーマー」を着用するアメリア・ブルーマー 引用debate
この新しい装いに感銘を受けたアメリア・ブルーマーが、自身の新聞で紹介したことをきっかけに、そのスタイルは徐々にアメリカで広まり、やがて彼女の名を冠して「ブルーマー」と呼ばれるようになったのです。
ブルーマーを着用する女性を描いた絵画 引用pinterest
当時、女性がパンツを穿くこと自体がきわめてスキャンダラスとされていたため、その斬新さゆえに大きな話題になりました。
1850年代初頭には、実際にこのスタイルを取り入れる女性が増え、一種の社会的ムーブメントへと発展します。
しかし、その反響が大きく話題になりすぎたために、「ブルーマーを着用する女性=フェミニスト」というイメージが定着。
ブルーマーを履く女性を比喩する風刺画 引用atlasobscura
風刺画で揶揄されたり、保守的な層や宗教団体からは「家庭と秩序の破壊者」として非難されたりなど、過激な反応を招くこととなりました。
スタイルそのものが注目されすぎたことで本来の主張が伝わりにくくなり、アメリア・ブルーマー自身も最終的にはこの服装をやめざるを得なくなりました。
このように実際には定着しませんでしたが、「女性の身体を解放する服」を考案して広めたということ自体は、非常に革新的だったといえます。
その証拠に、それ以降アメリカやイギリスで徐々に「健康と機能性」を意識した女性の服装への関心が高まっていきます。
徐々にではあるがこの頃のドレスはバッスルが小さくなり、シンプルな形になっていった(フランス・1888年頃) 引用pinterest
例えば、19世紀後半の「服装改革運動」でヘルス・ドレスと呼ばれる、健康と合理性を考えたドレスが考案されたり、「コルセットは身体に悪い」という価値観が次第に広まったり。
また、実はこの頃、1850年代に一時的に流行したブルーマーが、約40年の時を経て復活します。
そのきっかけは、女性が自転車に乗るようになったから。
女性が自転車に乗るイラスト(1890年代・アメリカ) 引用pinterest
1880年代後半に「セーフティ・バイシクル」という現在とほぼ同じ形の自転車が開発されました。
「安全に乗れる」ということで女性や子供にも広がり、結果的にアクティブに動くための女性の服が必要になったのです。
そこで50年代に登場したブルーマーにスポットが当たりました。
1900年代初頭頃の写真 引用fineartamerica
欧米各国で女性が自転車に乗るようになり、女性の移動範囲が広がったこの流行は、フェミニズム的にも非常に大きな出来事でした。
アメリカのフェミニスト、スーザン・B・アンソニーは「自転車ほど女性を解放したものはない」とまで言っています。
ポール・ポワレの登場
ポール・ポワレ 引用wikipedia
そんな中、1900年代初頭にフランスのデザイナー、ポール・ポワレがコルセットを使用しないドレスを考案します。
ポール・ポワレ作「ガーデンパーティードレスと女児用ボレロ」(1911年) 引用fashionsnap
ドレープが効いたエレガントなこのスタイルは、それまで「コルセットは果たして必要か?」という意識がじわじわ社会に浸透していたことも相まって、多くの人に「着たい!」と受け入れられ、新しいモードの波を起こします。
ちなみに、ポワレが脱コルセットの服装を考案したおよそ90年も前、実は既にフランスで「エンパイア・シルエット」というコルセットを付けないドレスが流行していました。
シュミーズ・ドレス(1802年頃・フランス) 引用kci
ただ、この時の流行はフェミニズム的な文脈ではなく、フランス革命後の「貴族的な華美なデザイン」への抵抗感から生まれたスタイルだったため、直接的には、一連のフェミニズムの流れには関係ありません。
しかし、ポワレのデザインが登場した時、比較的自然に受け入れられたのは、こういったフランスの服飾の歴史が、文化層を中心としてどこかに残っており、「なぜか懐かしくて綺麗に感じられる」と思わせたのかもしれないです。
ポール・ポワレの作品(1920年頃) 引用vogue
ポワレについては、「女性を解放したい!」というマインドよりも、新しいデザインの追求やオリエンタリズムの影響から、結果的に脱コルセットのデザインに行き着いたのでは?という研究もあります。
ポワレのデザイナーとしての心情は明らかではないですが、結果的に多くの女性を解放したという革命的な出来事になりました。
シャネルの登場
ココ・シャネル 引用alchetron
さらに1910年代、シャネルがコルセットを排除した、より日常着に近いドレスを考案します。
当時のココ・シャネルは、女性たちがきついコルセットを身に着け窮屈そうにしている姿を見て、よくうんざりしていたそうで、自身は男性が着るような乗馬服や帽子を身に着けていました。
ポワレよりも、より明確に女性開放の意識を持ってデザインをおこなっていたデザイナーだったといえます。
まず。シャネルが誕生させた有名なアイテムといえば、ジャージー素材のドレスやセットアップ。
シルクジャージーを使った名作「マリエール」(1916年) 引用prenotazioni
ジャージー素材は、それまで男性用の下着に使われていた素材でしたが、それをなんと大胆にもドレスに活用します。
「下着の素材を使うなんて…」という否定的な反応も当然ありましたが、それを上回るほどの魅力的なデザインであったため支持を得るように。
ジャージードレスを身に着けたシャネル(写真は後年のもの) 引用hummermower
それに加え、ファッションの中心地であるフランスで発表したことも人気の追い風となりました。
新しいものへの抵抗感が比較的少ない土壌の中で、洒落た女性たちが積極的に着用し始めたことにより、次第に流行していきます。
さらに、シャネルは女性のパンツスタイルを推進。
パンツスタイルを身に着けたシャネル 引用historyhit
当時、女性が公の場でパンツを穿くのはタブーとされていた時代の中、最初はリゾート地での乗馬やリラックス出来る服装としてパンツスタイルを提案しました。
シャネル自身もパンツスタイルでオープンな場に出向き、当時としては非常にスキャンダラスな出来事として大きな注目を集めました。
パンツスタイルを身に着けたシャネル 引用vogue
しかしシャネルは一切ひるむことなく、「男性の服を女性が着用することの美しさと快適さ」を積極的に打ち出しました。
このスタイルは感度の高い女性たちにはすぐに受け入れられましたが、一般層に浸透するまでには一定の時間がかかったそう。
第一次世界大戦が後押しした“動きやすさ”と“自由”
シャネルがファッションでクールに女性開放を実現しようとしていた最中、第一次世界大戦が起こります。
第一次世界大戦中、戦線にいる兵士の為にパンを包む女性たち 引用afpbb
これにより、様々な国で男性が徴兵されて、国内の工場などを女性の労働力で賄わなければならないという状況に。
フェミニズムとは直接的な関係はありませんが、その現実的なサバイバルを前に「コルセットを着けている場合ではない」という流れになり、より女性の服の動きやすさにスポットライトが当たります。
第一次世界大戦中のアメリカの女性工場労働者(1917年頃) 引用meisterdrucke
戦争が起こると大体どこの国も保守的なムードが高まり、「女性は家庭を守る」という流れになりますが、女性の服装に関しては、この第一次世界大戦が大きなターニングポイントとなったのです。
そして、ちょうど戦後にあたる1920年代頃、「フラッパーガール」というそれまでに無かった自由な女性像も登場します。
“フラッパー女優”と呼ばれていたルイーズ・ブルックス(1927年) 引用wikipedia
フラッパーガールは、コルセットを排したドロップウエストのドレス、短めのボブヘア、煙草や車の運転といった行動も含めて「可愛いお嬢さん」からの逸脱を楽しむ自由な女性たちの姿でした。
フランス人プロテニス選手のスザンヌ・ランラン(1926年) 引用bbc
他にもスポーティーな服装などが徐々に広まり出し、女性が「動く」ということを前提とした服装が当たり前になっていきます。
しかし、このフラッパーガールに関しては、フェミニズム的には少し複雑な位置付けで、自立や快楽を自分の意思で選び取った反面、メディアや社会によって“消費される存在”として扱われた側面もありました。
1928年頃のフラッパーガール 引用pinterest
純粋に「女性開放の先駆者だ!」とは言い難いですが、女性が自分でスタイルを選び取れるようになってきた象徴的な存在といえます。
第二次世界大戦がもたらした装いの実用化と保守化
その後、1941~1945年に第二次世界大戦が勃発。
女性らしい曲線を強調したイブニング・ドレス(1935年) 引用kci
戦争へと突入する直前の1930年代後半ごろから、また世間は少しずつ保守的なムードに包まれていき、女性の装いもウエストのくびれを強調するスタイルが再び見られるようになり、「女性らしさ」を重視する風潮が復活していきました。
とはいえ、否応なく現実的な生活に直面する時代だったため、実用性を重視した「動きやすい服装」も自然と受け入れられていく風潮が育っていったのです。
クレア・マッカーデル 引用medium
実際、アメリカでクレア・マッカーデルという人物が、同名のブランドを1940年に設立し、日常生活に根ざした女性のための実用的な服を数多く提案しました。
クレア・マッカーデルの作品(1946年頃) 引用seamwork
クレア・マッカーデルの作品(1948年頃) 引用pinterest
ポケットや前開き、体を締め付けないシルエットなど、”女性が自分で選び、着こなすための服”を発表し、ファッションを通じて女性の自立を支えたのです。
「ポップオーバードレス」当時の広告より引用oshare-tanaka
彼女の代表作「ポップオーバードレス」は、家事・外出・リラックスのすべてに対応する多用途なワンピースで、アメリカ女性の暮らしに革命を起こしました。
しかし、第二次世界大戦が終わった後、世界中ではさらに保守的なムードが高まります。
これによりフェミニズムも冬の時代を迎えます。
Christian Dior「ニュールック」(1947年) 引用fashiontrends
モード的にも、長めのスカートにウエストをしっかり締めたディオールのニュールックが注目され、いわゆる「女性らしいシルエット」というものが戻ってきたのです。
ただ、これは戦時中の質素な服からの反動というのもあり、一概に「女性に女らしさを求める服」というわけではないため、注意が必要なポイントです。
第2波フェミニズム
ウーマン・リブが示した「個人的=政治的」の真意
「性の弁証法」の著者であり、「家父長制=女性の再生能力への支配」を訴えたシュラミス・ファイアストーン 引用wikipedia
60年代〜80年代頃、さらに女性の社会構造面からの権利を獲得しようとする、第2波フェミニズムが起こります。
ここまでのフェミニズム運動は、「女性の社会進出」や「政治への参加」という最低限の人間としての権利を手にするための戦いでした。
1960年代に突入すると、政治的な権利だけでは不十分だという動向が強まってきます。
この時代のフェミニズムは、「家庭」「職場」「教育」など、日常生活のあらゆる場面に根付いた性差別や構造的な抑圧に対して、声を上げる動きへと発展していきました。
ベティ・フリーダン 引用ar.inspiredpencil
この第2波の運動のきっかけとなったのが、1963年にアメリカで出版されたベティ・フリーダンの著書『The Feminine Mystique(女性の神話)』という本です。
この本では、主に中産階級の主婦たちが抱えていた「この空虚感は何なのか」という問いが可視化されました。
ベティ・フリーダンの著「女らしさの神話」 引用iwanami
そして、「個人的なことは政治的なことである(The personal is political)」というスローガンのもと、日常生活に根ざした個々の問題こそが、社会構造と深く結びついているという認識が広がりました。
つまり、「家庭や恋愛や育児など“個人の悩み”とされてきたものが、実は社会や政治の問題であることに気づいた」というのが核になっているのです。
「自分だけの問題だと思っていたら、同じ悩みを抱える女性が他にも多く存在していた。これは個人の問題ではなく、社会構造そのものに起因するのではないか。」そうした気づきから生まれたのが、「ラディカル・フェミニズム」と呼ばれる思想です。
これは、男性中心に構築された社会の枠組みそのものを根本から見直し、変革しようとする立場であり、第2波フェミニズムにおける思想的な推進力の一つとなりました。
「家庭内のモラル・ハラスメント」「性暴力」「労働現場における性差別」など、これまで可視化されにくかった抑圧の構造を社会的な問題として公にし、議論の対象とすることが、この運動の中心となっていったのです。
1970年8月、ワシントンDCで行われたデモ 引用pressbooks
この一連の運動は、「ウーマン・リブ(Women’s Liberation Movement)」と呼ばれ、1960年代後半から活発になり、アメリカを皮切りに世界中へ波及。
「中絶や避妊の権利」「家庭内の役割分担」「性暴力の告発」「メディアにおける女性像の見直し」「職場での平等な雇用と昇進の権利」など、あらゆる領域で女性たちが連帯して変革を求め、街頭デモや出版活動などが行われました。
こうした運動を背景に、1975年には国際連合が「国際婦人年」を制定し、フェミニズムは国際的な議題として本格的に取り上げられるようになったのです。
男女雇用機会均等法施行後、企業説明会に臨む女子大生たち(1986年) 引用mainichi
日本でも1985年に「男女雇用機会均等法」が施行され、少し遅れながら制度的な変化が始まりました。
戦後のファッションの転換
モードの世界でも、もちろん大きな変革が起きていました。
71歳で復帰したココ・シャネル 引用cinematoday
まず、ウーマンリブが登場する前の1954年、第二次世界大戦後にファッションの表舞台から退いていたシャネルが復帰します。
実はシャネルは戦後、ナチスのスパイ疑惑をかけられ、長らくスイスに滞在し、デザイナーとして活動を休止していた時期がありました。
シャネルがパリにいなかった期間、自身が提案した女性を解放した服とは対照的な、ディオールのニュールックなどが流行っているのを見て、ブチギレながらカムバックしたそう。
女性用で初の肩掛けバッグ「2.55」を持つシャネル 引用vogue
復帰後は、シャネルの代表的なバッグの一つである「2.55」などを開発し、さらに女性を自由にするスタイルを提案していきました。
マリー・クワント 引用smithsonianmag
また、マリークワントが「ミニスカート」という新しいスタイルを打ち出したのも、ウーマンリブ以前の時代のインパクトのある出来事でした。
それまでの「足を出すなんてはしたない!」という世の中の風潮に、マリークワントは「ミニスカート」で風穴を開けます。
マリー・クワントの当時の作品 引用telling.asahi
「女性の足を見せること=性的に見られる」という価値観を逆手に取り、女性自身が主体的にそのセクシーさをコントロールする新しい自己表現のあり方を提示したのです。
マリー・クワントの作品(1969年) 引用smithsonianmag
肌を出すことや若さを前面に押し出すスタイルを“自分で選択する”。そのこと自体が、当時のフェミニズム的な挑戦ともいえるのでした。
「男性のためではなく、自分で選んでいるんだ」という強いマインドが秘められているのです。
広がりを見せるフェミニズムの捉え方
Yves Saint Laurent「Le Smoking」(1966AW) 引用quiestuparisienne
そして、ちょうどウーマンリブ運動が始まりつつあった1966年、イヴ・サンローランが女性のためのタキシード「ル・スモーキング」を発表。
20年代からシャネルが地道に提案し続けてきた「女性のパンツスタイル」が、ようやくこの頃に広く社会に浸透していったのです。
サンローランは、リラックススタイルの一つとしてパンツを勧めていたシャネルから、さらに一歩進めて、「男性のフォーマルウェアであるタキシードを女性がまとう」というスタイルを打ち出しました。
これは当時のファッション界において、より挑発的かつ革新的なアプローチとして受け止められました。
Yves Saint Laurent「Le Smoking」(1967年の写真) 引用cahiersdemode
ただ、第2波の主流であった「男性が構築した社会構造そのものを変えたい」とするラディカル・フェミニズムの視点でいうと、男性的権威の象徴ともいえるスタイルを、女性が身につけること自体に疑問を持つ意見もありました。
一方で、「この服を着ることで男性と対等に向き合える気がした」と語り、そこから力を得たとする女性たちも実際に存在しています。
この時期を境にフェミニズムの内部においても「女性の強さ」や「改革の仕方」に対する考え方が多様化されるようになってきたのです。
法学者・活動家であり、ラディカル・フェミニズムを法整備の面から推進したキャサリン・マッキノン 引用hls.harvard.edu
「男性が築いた社会構造そのものを問い直したい」とするラディカル・フェミニズムをはじめとして、「既存の社会制度の中で法整備や雇用・教育の平等を実現し、女性も主体的に活躍していこう」とするリベラル・フェミニズムは、第2波フェミニズムの代表的な派閥だと思います。
この観点からすると、イヴ・サンローランが発表した「ル・スモーキング」は、リベラル・フェミニズムの人々にとって、特に受け入れられやすいスタイルであったといえます。
ヴィヴィアン・ウエストウッド 引用pinterest
一方、70年代のヴィヴィアンウエストウッドが取ったアプローチは、ラディカル・フェミニズムの考え方に近いものがありました。
Vivienne Westwood1982AWコレクションより 引用bazaarvietnam
例えば、ブラジャーをあえてアウターとして着用するデザインは、当時としては非常に革新的かつスキャンダラスなものでした。
こういった性的な要素を意図的に誇張することで、男性の視線に応じるのではなく、むしろその視線を挑戦的に突き返すような、「性的な記号」自体の在り方を変えようとする、まさにラディカル・フェミニズム的なアプローチであったと言えるでしょう。
少し後に発表した1994年のコレクション「On Liberty」なども、その傾向は顕著でした。
Vivienne Westwood1994AWコレクションより 引用vogue
ヒップラインを極端に誇張したデザインを提案し、「これでもセクシーだと感じる?」と皮肉を込めて問いかける表現は、男性の視線に対する挑発であると同時に、「あなたが抱く“女性らしさ”って本当に自由なもの?」という問いを女性自身にも投げかけています。
こうした手法は、ラディカル・フェミニズムの思想に通じるアプローチであるといえるでしょう。
ただ、注意点として、これらのデザイナーは「私はフェミニストです!」と明言はしていなかったということ。
後年は特に環境問題に関する社会的な活動家としてデモなどに参加していたヴィヴィアン 引用bbc
結果的に社会への疑問を提示したり、女性をエンパワーメントする服を作ったりしたという事実はあるものの、特にヴィヴィアンは「フェミニスト」という特定の思想に縛られること自体を懸念してた部分はあるかと思います。
このように、第2波では「強い女性」「自由な女性」を表現したファッションが次々と生まれ、市民権を得ていきました。
第2波と第3波の中間にあたるフェミニズム
さらに、第2波と3波の中間にあたる1980年代には、“キャリアウーマン”という新しい女性像が社会に登場。
当時のキャリアウーマンを描いた映画「ワーキングガール(1988)」より 引用trendencias
肩パッド入りのスーツやパンツスタイルで武装し、男性中心の企業社会に乗り込み、自分の力でバリバリキャリアを積むという生き方を選ぶ女性たちが増えていきました。
Claude Montana1983AW 引用wwd
クロード・モンタナやティエリー・ミュグレーの超肩パッドスーツは、この時代を象徴するかなり印象的なデザインです。
80年代は女性の社会的自立とリンクした、強さや自信を象徴する服が流行しました。
実際この頃は、日本でもバリバリ働くキャリアウーマンが現れ始めた時期。
当時の雑誌(1987年頃) 引用liveinternet
「女性のゴールといえば専業主婦」という昭和的な価値観からの転換点になってました。
ただ80年代のキャリアウーマン像は、女性の社会進出の象徴である一方で、「男性社会に適応する」ことを求められたという側面もあり、フェミニズム内部でも賛否があったそう。
第3波フェミニズム
自己表現が切り開いた多様な女性像
第2波の成果によって女性の社会進出や法的権利は一定の水準に到達しました。
しかし90年代に入ると、「すべての女性にとって“女性解放は”同じ形で語られるべきなのか?」という疑問が、フェミニストの間で広がっていきました。
第2波フェミニズムの段階で、フェミニズムは一枚岩ではなく多様な立場に分かれ始めていた点には既に触れましたが、90年代以降はその傾向がさらに顕著になります。
多様な女性の例
すなわち、第2波フェミニズムが前提としていた「女性像」は、主に中産階級・白人・シスジェンダーの女性に限定されたものであったのではないかという事が指摘され、人種・階級・性的指向・トランスジェンダーなど、多様な属性をもつ女性たちが、それぞれの視点からフェミニズムを再定義し始めました。
これにより、「フェミニズムは一枚岩ではない」という認識が本格的に広がり、「誰かの正義が誰かの抑圧になっていないか?」という問いが運動の中核になっていきました。
これは、現代における「多様性を尊重する」考え方の前段階になったとも言える時代でしょう。
また、この時代は、主にラディカル・フェミニズムの文脈で疑問視されていた「自分が着たい服を着る自由」「好きなだけセクシーでいる自由」といった価値観も、徐々に尊重されるようになっていきます。
90年代に爆発的人気を誇っていたガールズグループ「Destiny’s Child」 引用harpersbazaar
へそ出し・ボディコン・露出系ファッションが流行し、かつて“搾取”とされていた装いが、今度は「自分の意志で選んだセクシー」として肯定的に捉えられるようになりました。
1992年にワシントンDCで行われた「RIOT GRRRL CONVENTION」のフライヤー 引用openoregon
こうした風潮の背景には、1990年代にアメリカで誕生した「ライオット・ガール(Riot Grrrl)・ムーブメント」の影響もあると考えられます。
ライオット・ガール・ムーブメントは、フェミニズムとパンク精神が結びついた文化運動で、女性たちが主体となって音楽やZINE(自主制作の冊子)を通じ、フェミニズム的なメッセージを積極的に発信しました。
Bikini Kill 引用rockbizz
特に女性メンバー中心で構成されたバンド『Bikini Kill』が有名で、「女の子たちよ、怒りを爆発させよう!」という叫びを通じて、性差別をはじめとする様々な抑圧に対する怒りを明確に表現しました。
このムーブメントの中で特徴的だったのは、女の子が“女の子らしさ”を保ったまま怒っていいし、力強くあってよい、という姿勢です。
Bikini Kill 引用pinterest
そのため、自分が好むメイクや可愛い服装、あるいはセクシーな服装に対して、他者から干渉されるべきではないという立場で、女性がファッションを自由に選ぶ権利が改めて提示されたといえます。
ジェンダーを揺さぶるデザイナーたち
Jean Paul Gaultier1985SS「Androgyny(アンドロジニー)」 引用europeana
同時にこの時代、ジャンポール・ゴルチエなどが性別の境界をあいまいにするデザインを打ち出し、男性もコルセットやスカートをまとうようなスタイルが登場。
Jean Paul Gaultier1985SS「Androgyny(アンドロジニー)」 引用europeana
ジェンダーそのものを揺さぶるモードが一つの潮流になります。
1978年にプラダを受け継いだミウッチャ・プラダも、1980年代後半~1990年代にかけてデザインにフェミニズムの視点を反映させ始めます。
ミウッチャ・プラダ(写真は近年のもの) 引用gqjapan
実は、ミウッチャ自身、70年代からイタリアの共産党に所属していて女性の権利運動に参加していたという背景があります。
PRADA1988AW 引用pinterest
そういった政治的立場とラグジュアリーブランドを牽引する立場というものに矛盾を感じながらでしたが、ミウッチャは1988年、プラダ初のウィメンズ・プレタポルテラインでメンズテーラリングを取り入れたジャケットやフラットシューズなどを発表します。
PRADA1996SS 引用vogue
また、96年「Bad Taste」コレクションでは、「アグリー・シック(ugly chic)」の美学を打ち出し、あえて美しくない素材や色使いを採用して女性のファッションにおける固定観念を覆す試みも。
女性のファッションのあり方に挑戦し、多様なファッションを肯定するようなコレクションを打ち出していきたのです。
90年代からポップにフェミニズムを発信していた雑誌「BUST」引用heapsmag
さらに、この頃になると“フェミニズム”そのものが商品化され、Tシャツやアクセサリーでメッセージが表現されたり、ポップにフェミニズムを表現するミュージシャンが現れたり…。「ポップフェミニズム」とも呼ばれる現象も生まれました。
第4波フェミニズム
インターネットとSNSの影響
第4波は、インターネットとSNSが広がり、新しいフェミニズムのかたちが生まれます。
引用flickr
2017年に世界的に拡大した「#MeToo運動」をきっかけに、性暴力やハラスメントの告発が可視化され、個人の体験が社会を動かす力を持つようになりました。
この時代のフェミニズムの特徴は、第3波から続く「誰かの自由を否定しない」という姿勢。
「多様性があるのは当然で、誰かの選択を否定しない」というこの姿勢は、第3波以降のフェミニズムや一部の社会学者の間で支持されていきます。
しかし一方で、「性の商品化」や「ポストフェミニズム的表現」についてラディカル・フェミニズムからは疑問視されることもありました。
第2波の頃からフェミニズムが一枚岩ではないということに触れてきたのですが、ここでもフェミニズムの多様化が顕著に表れているかと思います。
進化するフェミニズムとブランドの取り組み
“脱コルセット”を主題にしたウェブ漫画 引用japanese.joins
韓国では「脱コルセット運動」などが広がり、“見た目の強制”に対する抗議も盛んに。
ムダ毛処理をしない自由を描いた老舗カミソリ会社の広告 引用huffingtonpost
「どう見せるか」を女性自身が決めるという姿勢が定着しました。
ユニバーサル スタンダードの広告イメージ(2020年頃) 引用settingmind
「美しさ」に対する画一的な価値観に疑問を投げかけるような、多様な体型・年齢・人種・性自認を起用したファッションキャンペーンも増加。
ブランドのキャンペーンには、トランスジェンダーのモデルや、体型・年齢非問のモデルが登場し、「美の基準は一つではない」ことを打ち出すブランドが主流になりました。
様々なブランドが色々な形でフェミニズム的な表現を打ち出せるようになった近年。
中でも、ディオールのマリア・グラツィア・キウリは、積極的にフェミニズムに関するアプローチをおこなっています。
DIOR2017SS 引用harpersbazaar
2017SSコレクションでは、「We Should All Be Feminists(私たちはみなフェミニストであるべき)」というスローガンが書かれたTシャツを発表したり。
引用aeworld
また、「#TheWomenBehindMyDress」というハッシュタグを使い、ディオールの裏方で働く女性職人たちにスポットライトを当てたりしています。
第4波と呼ばれる近年のフェミニズムは、微妙に異なる思想もあり、フェミニスト自身の立ち位置も多様化しているのです。
ただ、「女性がフェアに社会に参加すべき」「女性をエンパワメントしたい」という根本は、初期から変わらず同じです。
ウィメンズコレクションに男性モデルがフリルのブラウスで登場したGUCCI2015AW 引用numero
身体を覆う服とヌードの関係性を捉え直したVALENTINO2024SS 引用graziamagazine
ファッション業界においても様々なデザイナーが、試行錯誤しながらファッションという表現でこれからも女性を勇気付けていくかと思います。
関連記事
こちらの記事もぜひご覧ください!
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回は「フェミニズムとモード」についてお話しました。
女性たちの闘いの歴史、そしてそれに寄り添いながら進化してきたファッションの歩みは、今後も女性の自由なスタイルに影響し続けるでしょう。
KLDでもフェミニズムと深く関わっているブランドのお買取を強化しています。
インポート、ドメスティック問わず様々なブランドの査定を得意とするスタッフの在籍により、高い精度での強気のお値付けが可能です。
宅配買取というと、
「時間かかるんじゃないの?」「面倒臭そう…」「配送料の分、買取金額を安くされそう…」
という不安をお持ちの方も多いのではないでしょうか?
実はそんなことも無いんです。
KLDでは、取り扱いブランドをある程度絞ることにより、高い水準のお買取金額を維持。
もちろん送料、キャンセル料なども無料です!
LINE査定も出来ますので、もし気になるアイテムがございましたらお気軽にお声かけ下さい!
ありがとうございました!
コメントを残す