GUCCIの歴史について|グッチ


引用instagram@gucci

こんにちは。ブランド古着のKLDです。

創業者グッチオ・グッチの若き頃のインスピレーションから始まった、長い歴史を持つラグジュアリーブランド、GUCCI。

100年以上もの時代を超えてきたGUCCIの歩みは、輝かしいものばかりではなく、戦争による窮地や家族経営による壁など、幾度となく訪れる困難を乗り越えてきた歴史があります。

今回は、

  • GUCCIとは
  • GUCCIの歴史

という形でお話していきます。

GUCCIの歴史といえば、グッチ一家の“お家騒動”が有名ですが、ここではGUCCIの「アイテム・経営・成長」にフォーカスしてお話ししていきます。

GUCCIとは?


引用gucci.com


引用gucci.com

「GUCCI(グッチ)」は、グッチオ・グッチが1921年に創業したイタリアのラグジュアリーブランドです。

創業当初からのブランドコンセプトは、「最上の伝統を最上の品質で、しかも過去のよいものを現代に反映させる商品作り」。

バッグや靴、財布などの皮革小物をはじめ、アパレルや宝飾品、時計、香水などを幅広く手がけています。

また、GUCCIの長い歴史を語る上で外せないのが、優れた発想力です。
革の代用品としてキャンバス地を使ったり、バッグの持ち手に竹を採用したりと、これまで画期的なデザインを数多く生み出してきました。

トレンドを取り入れながらも独自のスタイルを貫くことで、オリジナリティの高いデザインを生み出しているのがGUCCIの魅力なのです。

現在も、イタリアの卓越したクラフトマンシップを体現し、最高の品質と徹底したディテールへのこだわりを追及しています。

GUCCIの歴史

世界的に有名なGUCCIは、これまでどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。
ここからは、GUCCIの歴史についてお話します。

GUCCI誕生の背景


グッチオ・グッチ 引用vintage-paris

ブランド創業者のグッチオ・グッチは1881年、イタリアのフィレンツェで麦藁帽子の商売を生業とする両親のもとに生まれました。

グッチオが10代の頃、両親は仕事で失敗し、破産した家から逃れるため、彼はロンドンに渡ります。

やがてロンドンの高級ホテル「サヴォイホテル」で、ポーターやエレベーター係として働くように。

サヴォイを利用する裕福で華やかなゲストの美しい荷物は、若きグッチオに感銘とインスピレーションを与えました。
この経験は後のブランドビジネスに大いに活かされることになります。

上流階級の洗練された文化に触れ、特に贅沢な客人たちのスーツケースを観察することを通じて、「いつの日か自分の名を冠したラゲージを作りたい」という夢を抱き、1902年に故郷フィレンツェへ戻ったグッチオ。

帰国後、いくつかの商店で働いていましたが、1914年に第一次世界大戦が始まると徴兵され、一時フィレンツェから離れます。

戦後の1919年にフィレンツェへ帰郷したグッチオは、高級レザーグッズ店「フランツィ」で職を得て、皮革の扱い方を習得しました。

黎明期


引用jeje-piano.com

そして1921年、グッチオは革製品を扱う会社を設立し、ヴィーニャ・ヌオーヴァ通りに「グッチオ・グッチ鞄店」をオープン。

当時GUCCIが主に扱っていたのは、イギリスから輸入した鞄とその修理です。
この修理によって、鞄の脆い部分や、どう作れば強度が高まるかなど、使いやすく丈夫な鞄の作り方を学びました。

1923年には、フィレンツェのパリオーネ通りに自らの名を掲げたGUCCIショップをオープン。


アルド・グッチ 引用estime.co.jp

1925年頃には次男・アルドが家業を手伝い始め、販売や商品展示などに関わるように。

やがて鞄のデザインを手掛けるようになったグッチオは、選りすぐりの職人たちとともに高級革を使った旅行鞄の製作に励みます。

なお、グッチオには多くの逸話が残されています。
GUCCIは職人達にとっては手が出しにくい高級ブランドでしたが、グッチオは「材料費さえ払えば妻や娘、恋人に鞄を作ってもよい」と言っていたそうです。

また、どんなに不景気な状況下でも解雇しなかったり、つねに職人の家族のことを気にかけたりもしていたそう。
グッチオが職人達を信頼し、とても大切にしていたことが伺えます。

革新的なアイデアでブランドの質を高める

1930年代になると財布や乗馬用品にも手を広げていったGUCCI。

フィレンツェの伝統技術を生かした品質の高い製品は評判を呼び、上流階級の人々が頻繁にショップへ訪れ、ラグジュアリーブランドとしての地位を確立します。


引用e-daylight.jp

1933年には、ブランドを象徴する「ダブルG」(別名GGロゴ)が誕生。
GGロゴは創業者グッチオ・グッチのイニシャルから生まれたもので、ブランド認知を広めることと、品質を保証する目的でデザインされました。

今でもGUCCI製品には、ベルトや金具、ファブリックの柄などにGGロゴが取り入れられ、個性や高級感を演出しています。

なお、デザイナーの名前をロゴに起用したブランドはGUCCIが初めてで、それがきっかけで「ブランドの元祖」と称されるようになりました。

1935年には、耐久性を高めるためにキャンバス素材を採用した旅行鞄が誕生。
これは当時、イタリアとエチオピアの戦争による影響で輸入できなくなった革の代わりに、ヘンプを織った布地を使おうという代替策から生まれたものです。


引用okuraya.jp

その際、GUCCI初のシグネチャーパターン「ディアマンテキャンバス」も誕生しました。
ディアマンテとは小さなひし形模様が連続して交差するダイヤモンド柄です。

これはGUCCIの代表的なモチーフの「GGパターン(向かい合った2つのGを組み合わせたデザイン)」の先駆けとなります。

そんなGUCCIのスタイリッシュなデザインは評判が良く、会社は好調な道を進んでいましたが、1939年に勃発した第二次世界大戦の影響で大きな困難に直面します。

終戦後の1945年、敗戦国となり深刻な資源不足となったイタリア。
GUCCIは皮革の入手が難しい状況に陥り、経営危機に晒されたのです。

グッチオと次男のアルドは、在庫の革を極力減らさないよう、職人たちと一緒に皮革以外の素材を組み合わせた製品アイデアを模索します。

そこで皮革の代替品として着目したのがバンブー(竹)です。
そうして1947年に生まれたのが、竹と革を組み合わせたGUCCIのアイコン的存在「バンブーバッグ」です。


引用fashion-press

熱を竹に加えて曲げ、バッグの持ち手に用いた結果、他のブランドと一線を画す類を見ない斬新なデザインとして大ヒットとなりました。

戦後期の物資不足を乗り越えるためのクリエイティビティと革新的な発想が、GUCCIの名品バッグ誕生へとつながったのです。

グローバル市場に挑戦し、認知度を高める

1950年代に入るとGUCCIは、ヨーロッパのステータスブランドとして君臨するようになりました。

1951年頃、ウェブラインが誕生。


引用mericca.shop-pro.jp

GUCCIのウェブラインは別名「シェリーライン」とも呼ばれ、「緑・赤・緑」や「青・赤・青」のストライプ柄を指します。
ウェブラインはブランドのシンボルになり、バッグや財布、帽子など様々なアイテムで用いられるように。


引用tjapan.jp

1950年代前半には、GUCCIの歴史的な逸品「ジャッキーバッグ」が登場。
新鮮なシルエットと開閉が簡単なプッシュ式の留め具で、好評を得ました。

そしてGUCCIを筆頭とするイタリアのデザインは、次第にアメリカ人からの関心も高めていきました。

アメリカ市場で必ず成功すると確信したアルドは、グッチオにニューヨークでの開店を打診。

しかし、ブランドの質を何よりも大切にしていたグッチオは、店舗数を多くして自分の目が行き届かなくなるのを避けたかったため、アルドの提案に猛反対しました。

1953年、結局アルドはグッチオの反対を押し切って、イタリア国外初のニューヨークにショップをオープン。

そんなアルドの挑戦を見届けたあと、同年にグッチオは72年の生涯に幕を閉じました。

グッチオの死後、息子たちのおかげで勢いを増していたGUCCIは、1953年に新たにシューズコレクションを発表。


引用gucci.com

同年、ローファーの「ホースビット1953」が誕生しました。

このローファーの装飾に採用されたホースビットデザインは、馬の口に含ませる金属製の棒状の道具、轡(くつわ)からインスピレーションを得たものです。


引用vogue.com

1955年には、「ホースビット1955」と名付けられたコンパクトなフラップバッグを発表。

ホースビットのモチーフは、その後も様々なアイテムに取り入れられています。

総じて1950年代は、新たな挑戦やアイテム開発を押し進め、ブランドを大きく成長させた年代だといえます。

セレブリティに愛されラグジュアリーの象徴へ

1961年、50年代に流行したジャッキーバッグが再び注目されます。

ジャッキーバッグは、元々「フィフティーズ コンスタンス」という名前でしたが、ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領夫人の、ジャクリーン・ケネディが愛用していたことから「ジャッキー」へと改名されました。


ジャッキーバッグを持つケネディ 引用tjapan.jp

この改名をきっかけに、ジャッキーバッグはリバイバルヒットを飛ばし、GUCCIのラグジュアリーな印象を引き上げました。

1964年には、GUCCIが日本上陸。
アジア初となるショップを銀座の並木通りにオープンしました。
2年後には香港進出も実現し、アジア市場の開拓を積極的に進めていきます。

1966年には、フローラスカーフが登場。


1960年代のフローラスカーフ 引用gucci.com

このスカーフは、モナコ公妃のグレース・ケリーがGUCCIのショップに訪れた際、四男・ロドルフォが彼女のために、イラストレーターのヴィットリオ・アッコルネロに依頼して特別にデザインしたことがきっかけで生まれました。


GUCCIのショップから出るグレース・ケリー 引用collater

後に“フローラプリント”と名付けられた、気品溢れるフラワーモチーフのスカーフは、富裕層やセレブを中心に人気を集めました。

また1960年代には、GGパターンが誕生。


引用gucci.com

天地を逆にして向かい合って並ぶ2つのGマークは、グッチオ・グッチのダブルGにオマージュを捧げてデザインされたものです。
伝説的なイニシャルGGロゴを再構築してジャガード織り生地に採用し、新たなGUCCIのシンボルとなりました。

1960年代には、かつて映画俳優だった四男・ロドルフォの人脈を活かし、映画の小道具にGUCCIを採用。
GUCCIの名は、ハリウッドスターや富裕層の間で一気に高まりました。

プレタポルテの展開とブランド崩壊の危機

1960年代半ば、GUCCIはプレタポルテ(高級既製服)の展開を開始。

1972年には、初のウェアを扱うショップをニューヨーク5番街699番地にオープン。


1973年のコレクション 引用wwd.com

1970年代にはニューヨークのセントレジスホテルを会場に、ファッションショーをたびたび開催しています。

1980年代に入ると、ジョルジオ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチなどの新進気鋭のデザイナーたちが脚光を浴び、イタリアにもファッションの新しい波が押し寄せていました。

このファッション旋風の競争に勝ち残るため、イタリアでもコレクションを打ち出すことにしたGUCCI。

コレクションのデザインは、アルドの次男・パオロが担当することに。

そして1981年、GUCCIはフィレンツェのピッティ宮殿内のサラビアンカで、フローラプリントをフィーチャーしたコレクションを発表するショーを開催。

1982年には、ロドルフォの息子・マウリツィオの提案で実現した外部のデザイナーを起用したコレクションをミラノで発表。


1985AWコレクション 引用wwd.com

これは、ミラノコレクションの先駆けになったそう。

ショーはGUCCIの新しい方向性を見せ、見事に成功。
そしてGUCCIは本格的なファッション分野への進出を果たしました。

しかし、その煌びやかな発展の水面下では、1970年代後半頃から本格的に勃発していたグッチ一家の継承争いが徐々に強まっていました。

金銭、株、権力、経営方針など、あらゆる要素が絡み合った家族内の抗争によって、1980年代後半からGUCCIの人気や信頼は年々低下していったのです。

トム・フォードが才能を発揮し、GUCCIを救う

1993年、継承争いの末、GUCCIは会社の株式を投資会社のインベストコープにすべて売却。
これで長く続いた争いに終止符を打ち、GUCCIの家族経営が終了しました。

そして20世紀の終わりとともに、デザイナーがクリエイティブディレクターとしてブランドに独自の視点をもたらす時代が幕を開けました。

トム・フォード 引用luxity.co

1994年、GUCCIのレディース部門のデザイナーを務めていたトム・フォードがクリエイティブディレクターに就任。


GUCCI1996AW 引用luxity.co

トム・フォードは類まれなる感性で時代にフィットしたアイテムを世に送り出し、世界中のファッション賞を数多く獲得しました。

マーケティングにおいても優れた手腕を発揮した彼は、ロゴの再開発や製品のイメージメイキングにも着手。

GUCCIブランドは再び大きく売り上げを伸ばし、見事復活を遂げます。

また1999年には、フランスの大手企業、PPR社(現ケリング)と戦略的提携を組んだことにより、GUCCIはグループ傘下のブランドとなりました。

PPR社はLVMHと並ぶラグジュアリー複合企業の一つで、イヴ・サンローランやバレンシアガ、ボッテガヴェネタなど、GUCCIだけでなく数々の有名ラグジュアリーブランドと提携しています。

そんな大きな存在がバックについたことで、GUCCIの信頼も再び高まっていきました。

多彩なクリエイティブディレクターを迎え入れ進化を続ける

2004年、GUCCIの窮地を救ったトム・フォードが退任。

トム・フォード以降も素晴らしいクリエイティブディレクターを迎え入れ、進化を遂げています。

2004年よりトム・フォードの後任を務めたのは、アレッサンドラ・ファキネッティとジョン・レイでした。

アレッサンドラ・ファキネッティはデザインディレクターとして2000年からトム・フォードを陰から支えていた人物です。
ただ、方針の違いが理由でわずか2シーズンで辞任しています。

ジョン・レイはミラノで開催されたメンズコレクションの舞台を中心に活躍しましたが、4シーズンでGUCCIから離脱しています。

2005年、フリーダ・ジャンニーニがディレクターに就任。
デザインだけでなくインテリアや建築面でも自身のコンセプトを落とし込むなど、10年以上にわたってブランド全体を牽引してきました。

2015年にフリーダ・ジャンニーニからバトンを受けたのは、鬼才とも呼ばれていたアレッサンドロ・ミケーレです。

アレッサンドロ・ミケーレは、低迷期から復活したGUCCIにさらなる追い風を吹き込みました。


サバト・デ・サルノ 引用vogue.com

アレッサンドロ・ミケーレ退任後は、サバト・デ・サルノがクリエイティブディレクターに。
これからのGUCCIを創るデザイナーとして、彼の今後の活躍が注目されています。

ここまで読んでくださった方へ

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

今や世界的ラグジュアリーブランドのトップクラスに君臨するGUCCI。

どんな危機的な状況下でも、革新的なアイデアや前向きな挑戦により大きく成長してきました。

他のラグジュアリーブランドと一線を画すその底知れぬ力は、GUCCIの魅力であり、今後あらゆる状況になってもきっとGUCCIなら乗り越えられるという、ブランドの信頼にも繋がっています。

これからも進化を遂げていくGUCCIですが、その根幹には、常にブランドの質を守り、職人を大切にしてきた創業者のグッチオ・グッチの存在が宿り続けるでしょう。

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