
引用highsnobiety.jp
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
Vetementsの創始者であり、BALENCIAGAのアーティスティックディレクターを務め、2025年にはGUCCIのクリエイティブディレクターに就任する、デムナ・ヴァザリア。
彼は、自らのバックグラウンドから生まれる芯のあるデザインで、「ラグジュアリーストリート」のパイオニアとも言われているデザイナーです。
今回は、
- デムナ・ヴァザリアとは
- 来歴
- デムナ・ヴァザリアを形作るもの
という形で、彼が影響を受けた事柄や人物像などについて掘り下げてお話していきます。
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デムナ・ヴァザリアとは?
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Vetements 2018SSコレクションより 引用fashion-press.net
デムナ・ヴァザリアはジョージア出身のファッションデザイナーです。
「Vetements(ヴェトモン)」の創設者であり、2015年からは「BALENCIAGA(バレンシアガ)」のアーティスティックディレクターとして活躍した人物として知られています。
ヴェトモンでは、たった数シーズンでファッショニスタの心を掴み、「ラグジュアリーストリートのパイオニア」と呼ばれるほどのカリスマ的な人気を獲得。
バレンシアガでは、これまでのブランドの伝統を踏襲しつつ、デムナらしいストリートのエッセンスを加え大胆なイメージチェンジを行いました。
また、デムナは幼少期を戦時下で過ごすという壮絶な生い立ちを持っており、その経験から着想を得たアイテムは、ファッション界のみならず社会的にも大きな意義のあるものとなっています。
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泥水まみれでおこなった バレンシアガ2023SSコレクションより 引用fashion-press.net
さらに、吹雪の中や泥水まみれの中で行うショーの演出もデムナの特徴で、これらは「戦争への抵抗」「批判されても自分らしさを追求する」というメッセージが込められています。
2025年7月には、GUCCIのアーティスティックディレクターに就任するデムナ。
どんなブランドであっても、世の中に対する問題提起や斬新なアイデアで私たちを驚かせてくれるに違いありません。
来歴
ヴェトモンのブレイクとともに突如として脚光を浴びたデムナ・ヴァザリア。
ラグジュアリー業界のトレンドを一夜にしてひっくり返したデムナは、一体どのような人生を歩んできたのでしょうか。
彼の生い立ちや経歴に迫ります。
生い立ち
デムナ・ヴァザリアは1981年3月25日生まれ、(当時は旧ソ連の一部でグルジアと呼ばれていた)ジョージアの海沿いの都市スフミ出身です。
スフミはジョージア国内にありながら、自治を主張するアブハジア共和国の首都でもありました。
自動車修理業を経営していた父親と、専業主婦の母親のもとに生まれ、5年後には弟のグラムが誕生します。
80年代の旧ソ連支配下のジョージアでは、あらゆるものが制限され、選択肢が極めて少ない生活が続いていました。
キウイですら珍しく、バナナを見たことがない人も多かったそうで、歯磨き粉も1種類しかなかったそう。
「ジョージアは本当に遅れていました」とデムナが当時を振り返るように、西側(アメリカや西ヨーロッパ諸国などの資本主義・自由主義の国)の製品に触れる機会もほとんどありませんでした。
ファッションブランドは国内に3~4つほどしかなく、ファッション雑誌が発行されているのは2冊だけで、しかもVOUGEなどのモード誌やトレンド誌ではなかったため、西側諸国のファッション情報も遮断されていました。
左がデムナで右がグラム 引用instagram@gvasalia
しかしそのような環境の中でも、デムナは服に魅了され、1日に何度も着替えるほどおしゃれが大好きだったといいます。
服は今ほどバリエーションが多くなかったため、シャツの袖を切ったりボタンを付け替えたりして個性を表現し、学校には短く切ったパンツや、絵を描いたピオネールスカーフを身につけて登校していたそうです。
左がグラムで右がデムナ 引用instagram@gvasalia
「みんな同じ服を着ていた。服への興味は、そういう人たちと違うことをしたいという思いから生まれた」と、デムナは語っています。
ファッションに縁のある家庭ではなかったが、当時としては非常に貴重とされていたアディダスのトラックスーツを両親が買ってくれたというエピソードもあります。
また、女の子より男の子が好きだと気づいたのはデムナが6歳の頃。
ただ、当時のジョージアは同性愛嫌悪が強かったため、自分のセクシュアリティを隠して過ごしていたそうです。
戦争によって移住を繰り返した10代
旧ソ連時代のジョージアにあった有名な温泉リゾートの建物 引用wired
1991年、旧ソ連が崩壊し、ジョージアは解放されました。
この時のことをデムナは「まるで爆発のようだった」と語っています。
そしてジョージアには、これまで輸入されなかったコカ・コーラやファンタ、VOUGE、マクドナルドなどが登場し、海外からの影響が溢れるように。
マクドナルドで誕生日パーティーを開くのが最高だったらしく、ハッピーセットは本当に人を幸せにするものだと感じていたそう。
ヒップホップやゴシックなど、自由を表現しようとする音楽も入ってきました。
服に関しても、海外からの影響を強く受けたバリエーション豊かなアイテムが増え、人々も多様になっていったといいます。
10代であろうデムナ(左はグラム)引用instagram@gvasalia
デムナは、西海岸のラッパー風やゴシックなど、日々自由な服装を楽しんでいたそうです。
窮屈な旧ソ連時代が終わり、新時代に突入していたジョージアでしたが、1992年8月、アブハジアで紛争が勃発。
アブハジアに住んでいたデムナ一家を含む多くの人々は、逃げることを余儀なくされます。
当時デムナは12歳。写真アルバムとバックパックだけを持ち、約2週間山を越え、ようやく辿り着いたのは、ジョージアの首都・トビリシでした。
やがてトビリシにて初等・中等教育を受け、1997年にはトビリシ国立大学に入学。大学では経済学を学び2001年に卒業。
そして同年に、家族とともにドイツのデュッセルドルフに移住します。
ドイツの難民キャンプ(写真は近年のもの)引用parstoday
到着後の3か月間は難民キャンプで生活していたそうです。(繰り返す移住の影響もあってか、デムナは6ヶ国語を話すことができるらしい)
この時期の経験は、デムナにとって大きな苦労であった一方で、後のデザイナーとしての彼を形作る重要な礎となりました。
ファッションの道に進む決断
20歳頃になると、将来は銀行や金融関係の仕事に就こうと考えるように。
この時、幼い頃から抱いていたファッションへの興味はまだあったものの、両親から「ファッションで生計を立てることはできないし、男の仕事でもない」と言われ、諦めざるを得ない状況でした。
実際デムナは、地元の銀行でインターンとして採用され、安定した人生への道を歩み始めていました。
そんな中、偶然読んでいた『ル・フィガロ』紙でヨーロッパのファッション学校に関する記事を目にします。
そこに、アントワープ王立芸術アカデミーの学費が年間わずか500ユーロと書かれており、「これなら自分にも手が届く」と感じて入学を決意。(当時セント・マーチンズの学費は約12,000ユーロ)
アントワープ王立芸術アカデミー時代
アントワープ芸術学院 引用flickr.com
デムナは2003年、単身ベルギーに渡り、アントワープ王立芸術アカデミーに入学。
1年生46名の中で最年少かつ最も経験の浅い彼でしたが、すぐに他の学生とは一線を画す存在となります。
ムードボードやスケッチといった準備段階をできるだけ省き、集めた生地で直接試作を始め、後から湧いてきたインスピレーションを作品に反映させるという独自の手法をとっていました。
裁断から組み立て、縫製までを本能的にこなし、他の学生がミシンを使う中、デムナは手縫いを楽しんでいたそうです。
形式にとらわれず、自由なスタイルで創作を進めるやり方でしたが、結果的にいつも高い完成度の作品を生み出していました。
感覚でイメージを形にするアプローチを自ら見出していったのです。
「彼に教える必要はなかった」と当時の教授が語るように、この時から既にデムナの創作力は群を抜いていたのでしょう。
2年次の課題で「狩人(Hunter)」というテーマのコレクションを制作し、イタリアのファッションコンテスト「ITS」で優勝 引用successstory
その後も2年次、3年次、4年次の課題をこなし、学校内や外部の賞をいくつか受賞しました。
初期のキャリア
2006年、アントワープ王立芸術アカデミーを卒業後は、ウォター・ヴァン・ベイレンドンクのメンズウェアのデザインを担当することに。
デムナとウォルター 引用lifestyleasia
これはデムナが在学中、アントワープの教師でもあったウォルター本人から「一緒に仕事をしないか」と声をかけられたことがきっかけでした。
ウォルターのもとで1年半働いた後、2007年にアントワープ時代の同級生と共に「ステレオタイプス(STEREOTYPES)」というブランドを立ち上げます。
このブランドで、当時、三宅一生が主催していた展示会に参加し、作品を発表。プロジェクトという形で日本で国際デビューを果たします。
FFIショールームにて 引用ashadedviewonfashion
FFIショールームに並ぶデムナの作品 引用ashadedviewonfashion
ほどなくしてステレオタイプスは活動休止し、デムナは個人的にショールームで作品を発表するなどして活動していました。
メゾン・マルタン・マルジェラでの経験
そして2009年、ウィメンズウェアに携わりたいと考えていたデムナは、メゾン・マルタン・マルジェラ(現メゾン・マルジェラ)の門を叩きます。
マルジェラの採用課題として10体のルックを描き、それを油ぎったピザの箱に詰めて提出。そのユニークな応募スタイルが評価され、彼はパリのウィメンズウェアチームに配属されます。
当時のマルジェラは、創業者マルタン・マルジェラが引退した直後で、ブランドとしてのアイデンティティを模索する過渡期にありました。
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マルタン・マルジェラ引退後のメゾン・マルタン・マルジェラ2009AW 引用firstview
チームは多国籍のデザイナーたちで構成され、創業者のレガシーを継承しようと尽力していたといいます。
チームの雰囲気は非常に良く、時にスタジオに一日中こもって愚痴をこぼし合い、その後は夜通しパーティーを楽しむこともあったそう。
マルジェラでは、90年代初頭の初期コレクションをはじめとするブランドの歴史から、探究的なファッション精神を学んだデムナ。
たとえば、シャツを分解して新たなシャツを再構築する技術や、「何か新しいものを生み出すには自分が何をしているのか、その核心を理解する必要がある」といった哲学的な視点などに強い影響を受けたといいます。
デザインの美的側面だけでなく、概念的なアプローチを重視する姿勢を身につけていきました。
しかし同時に、「この場所に一生留まるか、それともファッションのまだ知らない側面を発見するか」という思いも芽生えていきます。
やがて、マルジェラとは異なる、より企業的かつラグジュアリーな世界を見てみたいという気持ちが強まりました。
そんな矢先、ルイ・ヴィトンのヘッドハンターから声がかかります。
こうして約3年半在籍したマルジェラを離れ、デムナはルイ・ヴィトンへ移籍することに。
ルイ・ヴィトンに移籍
2013年、デムナは、当時マーク・ジェイコブスがクリエイティブ・ディレクターを務めていたルイ・ヴィトンに入社。
マーク・ジェイコブス 引用snkrdunk
最初の2シーズンはマークのもとで、続く2シーズンは彼の後任であるニコラ・ジェスキエールのもとで、ウィメンズウェアのシニアデザイナーを務めました。
ニコラ・ジェスキエール 引用snkrdunk
感覚的に服作りを進めるマークと、完璧主義で構築的なアプローチを取るニコラ。対照的な2人のディレクターの下で働くことで、デムナはデザイナーとしての力量をさらに高めていきました。
しかし、デムナは当時のことを「ストレスのたまる時期だった」と振り返っています。
「こんな風に続けていたら、自分を表現する術がなく、仕事が嫌いになってしまうだろうと気づき始めた」ということも語っています。
ルイ・ヴィトンでは、スタジオ内で自分の居場所を見出せず、日々フラストレーションが募っていたデムナ。
ラグジュアリー業界の現場は、想像以上に商業的で制約が多く、自由な創作の場とは程遠いものだったのです。
そこでデムナは、同僚2人と共に“商業的な重労働からの解放”を目的としたプロジェクトを立ち上げます。
それは、週末の仕事終わりに行くヨガ教室や読書会的な、趣味の延長のような創作活動でした。
3人はデムナの寝室で夜な夜な作業に没頭し、まるで狂ったように作品を生み出していきました。
ルイ・ヴィトンでは決して作れなかったような、商業性とは無縁で、ただ純粋に「友人や家族に着てもらいたい」と思えるピュアでリアルな服が形になっていきました。
この活動を見たデムナの弟、グラムは「これは単なる趣味ではなく、本格的なビジネスになる」と確信し、ブランド立ち上げを強く後押しします。
そして2014年、デムナはルイ・ヴィトンを退職。
ヴェトモンを立ち上げる
2013月12月、ルイ・ヴィトンで得た資金をすべて注ぎ込んで、弟のグラムと2人の友人と共に「ヴェトモン(Vetements)」を立ち上げました。
ブランド名は、フランス語で「服」を意味するシンプルな言葉。
ヴェトモンのデザイナーたち 引用agnautacouture
立ち上げ当初は6人ほどのデザイナーが在籍していましたが、その多くはまだ他のメゾンに所属していました。
そのため、肩書きや組織に縛られない、自由で気ままなクリエイティブ集団として始動。
デムナたちは、古着屋や軍の放出品ショップなどで見つけた服をリメイクし、それを友人たちに着せて実験的に展開していきました。
最初の創作の拠点は、パリのデムナのアパート。
ヴェトモンのファーストコレクション 引用vogue
ヴェトモンのファーストコレクション 引用vogue
2014年にはギャラリーで初のコレクションを発表。
そして、ヴェトモンの2回目となるコレクション、2015AWのショーで転機が訪れます。
会場はパリのゲイクラブ「ル・デポ」。
深夜に行われたこのショーは、パリファッションウィークの公式スケジュール外で開催され、報道陣もわずかしかいませんでした。
にもかかわらず、会場にはジャレッド・レト、カニエ・ウェスト、トラヴィス・スコット、そしてアナ・ウィンターといった豪華な顔ぶれが集結。
ヴェトモン2015AWコレクション 引用demnagvasalia
ヴェトモン2015AWコレクション 引用agnautacouture
印象的だったのは、フランスの消防士の制服にインスパイアされたスウェットシャツ、「アントワープ」と書かれた土産物風のTシャツ、ハイウエストのジーンズ、そしてロングスリーブのボンバージャケットやモータージャケットといったアイテムの数々。
ヴェトモン2015AWコレクション 引用agnautacouture
異例のロケーションと大胆なスタイルで、デムナはファッション界に強烈なインパクトを残しました。
会場も熱狂的なエネルギーに包まれ、ヴェトモンとデムナの名はこのコレクションで一躍脚光を浴びることになります。
その後、デムナは本格的に仕事にのめり込み、新しいスタジオを構えます。
仕事は月曜から土曜まで、午前9時に始まり深夜3時終わるという多忙な日々を送るほど、ヴェトモンはカリスマ的ブランドへと急成長を遂げました。
バレンシアガのディレクターに抜擢
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バレンシアガのデビューコレクションである2016AWより 引用fashion-press.net
Vetementsの大ヒットがきっかけとなり、デムナは2015年にバレンシアガのデザイナーに抜擢されます。
これまでの伝統を重んじたラグジュアリーなバレンシアガのイメージから、ストリートスタイルへと大胆にブランドイメージを変更し、「ラグジュアリーストリート」という新たなスタイルを確立します。
この方向転換によって、これまでメインの客層ではなかった若い世代を取り込むことに成功。
デムナがデザイナーとなってからのバレンシアガは「デムナ期」と呼ばれ、トリプルSスニーカーやロゴフーディなど人気のアイテムにはプレミア価格がつくものも。
2023SSコレクションでコラボレーションしたLaysのポテトチップスバッグ 引用instagram@demnagram/
また、クロックスやLaysのポテトチップス、メルセデスベンツなど、異色のコラボレーションを豊富に発表している点も印象的。
さらに特筆すべきは、2021年に約半世紀ぶりとなるバレンシアガのオートクチュールコレクションを復活させたことです。
バレンシアガ2021AWオートクチュールコレクション 引用wwdjapan
バレンシアガ2021AWオートクチュールコレクション 引用wwdjapan
ブランドの歴史に敬意を払いながらも、ジーンズやパーカーなどの定番服や、オーバーサイズのドレスなどをクチュールの手法で仕立て、デムナらしいデザインに仕上げています。
バレンシアガ2021AWオートクチュールコレクション 引用wwdjapan
このコレクションは世界的に大きな反響を呼び、彼の創造性がいかに時代を鋭く捉えているかを改めて証明する結果となりました。
下がサンセリフ体のロゴ 引用fashion-archive
SNSでの発信に備えて、ブランドロゴをサンセリフ体に変更した際は、他のブランドも追随するなど、常に時代の先をゆくブランドとなりました。
近年のハイブランドのロゴブームも、デムナが作り出したものといっても過言ではありません。
グッチの指揮を執ることに
2025年7月に、デムナ・ヴァザリアはグッチの新クリエイティブ・ディレクターに就任することが発表されました。
グッチは、2023年にサバト・デ・サルノが就任して以降、売上の大幅な減少に直面していたため、今回の人事はブランドの再生を賭けた大胆な一手といえます。
デムナの持つストリート感覚とラグジュアリーの融合は、これまでのキャリアで証明されており、そうした実績がグッチの新たな方向性に必要とされたのでしょう。
この就任により、グッチは新たな時代へと舵を切り、再びファッション界の注目を集めることが期待されています。
彼のグッチでのデビューは、2025年9月に発表予定です。
デムナ・ヴァザリアを形作るもの
ここからは、デムナ・ヴァザリアを形作るものを紹介します。
クリエイション面だけでなく、人物像も掘り下げてお話します。
ファッション業界やジェンダー観への提言
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ベビーキャリーを取り入れたメンズのルック、コルセットをつけたメンズのルック バレンシアガ2023夏コレクションより 引用fashion-press.net
デムナといえば、デザインを通して、様々なメッセージを世の中に発信する姿勢が印象的です。
デムナが手がけるショーは、荒れた吹雪の嵐の中や、泥まみれの中で行われるなどメッセージ性の強いものが多いのが特徴。
ランウェイではベビー用品を持った男性やコルセットを身につけた男性が歩くなど、ジェンダー観についても考えさせられる演出が多くあります。
また、自身がゲイであることを公言しており、LGBTQIA+の認知と受容を促進するプロジェクトへの支援などを積極的に行うなど、ファッションを通して社会へのメッセージを発信し続けています。
2022年のバレンシアガのショーは、ウクライナでの戦争真っ只中のタイミングで開催されました。
デムナは元難民として戦争の悲惨さや愚かさを誰よりも理解しています。
ファッション業界では「戦争によって苦しむ人がいる中で、コレクションを開催しても良いのだろうか」というムードが漂う中、デムナが作り上げたショーはそんな業界人の考えを大きく揺さぶるものでした。
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バレンシアガ2022冬コレクションより 引用fashion-press.net
猛烈な吹雪という過酷な環境の中、ランウェイを歩くモデルはゴミ袋から着想を得て作られたポシェット、ベルトの代わりに巻きつけたガムテープ、擦り切れたフェイクレザーのボアコートなど「再利用」と「DIY」を現したアイテムを身につけて登場しました。
一夜にして難民となり、過酷な状況の中懸命に生きているウクライナの人々を思わせるルックに感情を揺さぶられるゲストが続出。
デムナはこのショーで、ファッションを通して「愛と平和」を伝えられるということを証明しました。
デムナは、「このショーをキャンセルすることは、30年近く私にひどく苦痛を与えてきた悪に降参し、屈することを意味するであろうことに気づきました。私は、自分の一部を無意味で無情なエゴの戦争の犠牲にすることはもうできないと決意しました。このショーに説明は必要ありません。それは、恐れないこと、抵抗すること、そして愛と平和の勝利への献身です。」と語っています。
このショーの成功は、コロナ禍からの世界情勢に対して無力感を感じていたファッション業界の人々にとっても、とても意味のあるものとなりました。
また、デムナは「ファッション業界」という、ある種閉鎖的な業界のシステムに対しても、ブランド活動を通じて抗い続けています。
物流会社「DHL」のロゴパロディTシャツ(2016年・ヴェトモン) 引用fashionsnap.com
大ヒットした「ダッドスニーカー」やDHL(国際宅急便会社)のTシャツは、単なるパロディや破壊的行為ではなく、大量生産と消費を繰り返すファッション業界に対する強いメッセージが込められていました。
デムナのこうしたファッション業界への皮肉とも取れる作品には賛否両論が飛び交いますが、世界を取り巻く様々な問題に対して、人々が議論をするきっかけになっています。
マルジェラから受けた影響
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デムナがマルジェラに入社した頃のメゾンマルタンマルジェラ、2009AWコレクションより 引用firstview.com
デムナの創作の根底には、メゾン・マルタン・マルジェラから受けた影響が深く根付いているといえるでしょう。
特に、ありふれたアイテムに創造的なコンセプトを加えることで、まったく新しい製品へと昇華させる「解体」と「再構築」の哲学は、デムナのデザインにおいて欠かせない要素となっています。
実際に、一度バラバラにした洋服を再び縫い合わせ、新たなシルエットや意味を持たせる手法を、彼は積極的に取り入れています。
さらに、ラグジュアリー性よりも“服そのもの”に対する探究心を重視する姿勢も、マルジェラから受け継いだ重要な価値観です。
弟グラムの存在
グラム・ヴァザリア 引用wwdjapan
弟グラムの存在もデムナを形作るうえで重要な要素の一つです。
二人は2014年に「ヴェトモン」を創業し、デムナがクリエイションを、グラムが経営や広報を担うという明確な役割分担でブランドを世界的に成長させました。
グラムはCEOとしてブランドの経営基盤を築き、デムナが2019年に退任した後はクリエイティブディレクターも兼任し、ヴェトモンの新たな時代を切り拓いています。
また、兄弟で戦争や避難生活を乗り越えた過去も、二人の結束や価値観に大きな影響を与えています。
グラムは自身の経験から「クリエイティビティと情熱があれば人生を変えられる」と語り、デムナのキャリアやブランドの成功を押し進めました。
パートナーの存在
BFRNDことロイク・ゴメス 引用themmagazine
デムナにとって大切であり、癒しとなっているのが、2017年にスイスで結婚したミュージシャンのBFRND(ロイク・ゴメス)の存在です。
このパートナーシップは、単なる私生活の支えにとどまらず、デムナのクリエイション、価値観、さらには社会に対するメッセージの発信にも深く影響を与えています。
BFRNDは、2017年以降バレンシアガのランウェイショーにおける音楽を手がけており、ブランドの世界観を音楽面から支え続けてきました。
デムナがショーの音楽に「愛」や「感情」を求めることもあり、BFRNDとの関係性がクリエイションの根幹に直結していることがうかがえます。
BFRND自身も「デムナと仕事をすることで、自分の限界を押し広げられる」と語っており、二人は互いにインスピレーションを与え合う存在です。
また、BFRNDは音楽活動だけでなく、モデルやフォトグラファーとしても活躍し、バレンシアガのビジュアル表現やカルチャー面にも深く関わっています。
私生活では、チューリッヒ郊外に自宅を構え、穏やかで落ち着いた生活を送っているそう。
デムナにとってパートナーとの関係は精神的な支柱であり、同時にクリエイションやブランドの世界観をより豊かにしてくれる重要な存在なのです。
ファッションにとらわれない現実主義な一面
ラグジュアリー業界に腰を据えるデムナですが、彼自身は「ファッションには興味がない」と公言しています。
贅沢な服よりも休暇の方が大切だそうで、山や湖に行ったり、ヨガのクラスに参加したり、一人で瞑想をしたり…。華やかなファッションの世界とはかけ離れた、マインドフルネスな生活に幸せを見出しています。
バレンシアガのアーティスティックディレクターに就任した頃には、アルコールとタバコをやめ、ベジタリアンになったそう。
チューリッヒ郊外の自宅近くの森にいるデムナ 引用vogue
パーティーや夜型の生活、ソーシャルメディアとも距離を置き、2017年頃には煌びやかなパリの街から、静かで秩序あるチューリッヒに移住しました。
これは、生活の質やプライバシー、税制面など現実的な理由によるもので、創造性は都市や流行に縛られず、自分が最も心地よく過ごせる場所で育まれるという信念によるものだそう。
このデムナの現実主義的な性格は、クリエイション面でもみられます。
2018SSコレクション 引用pleasemagazine
2018SSコレクション 引用pleasemagazine
ヴェトモン2018SSコレクションでは、伝統的なランウェイではなく、チューリッヒで暮らす一般の人々をモデルに起用し、本物らしさと共感性を重視しました。
また、多くのデザイナーが「コレクション」や「アート」といった言葉で作品を語る中、デムナは自らのアイテムを「プロダクト」と呼び、機能的なモノとして捉えています。
美術館に展示するための服ではなく、誰かのワードローブの一部になるような服を作っているのです。
こうしたデムナの人物像は、旧ソ連時代や難民時代といったバックグラウンドから滲み出る、「現実を生きる強さ」のようなものを感じられます。
難民経験からの影響
デムナ・ヴァザリアを語る上で最も欠かさない要素であるのが、「難民経験からの影響」ではないでしょうか。
デムナの心に息づく難民時代の苦い思い出は、デザインとして昇華されています。
その中でも、デムナを象徴するものをいくつか紹介します。
オーバーサイズ
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バレンシアガ 2018年冬コレクションより 引用fashion-press.net
デムナが手がけるコレクションでは、オーバーサイズの服がよく登場します。
これはデムナの幼少期の思い出と深い関係があります。
難民として育ったデムナは、幼い頃から子ども用の服がなかったため、大人の服をお下がりとして着用するしかありませんでした。
故郷であるスフミでは空襲が絶えなかったため、親戚の住む首都トビリシまで、わずかな必需品を持てるだけ持って移動をしました。
父親のお下がりのジャケットを着てシャツの袖を指の先までぶら下げながら、トビリシまで約2週間、無一文で歩き続けたそうです。
この壮絶な思い出こそデムナが提唱する「オーバーサイズ」の起源であり、この経験やコンプレックスから生まれたのが「Vetements」です。
そんな幼い頃の自分の服装からインスピレーションを受けて作ったオーバーサイズのアイテムは、「メゾンマルジェラ」にて培われたバランス感覚によって唯一無二の作品となりました。
ただ大きいだけではなく、肩の落ち具合や袖や着丈など綿密な計算の上作られており、独特のデザインに仕上げられています。
WFP(世界食糧計画)
WFPコラボモデルのTシャツ 引用balenciaga.com
デムナはWFP(国連世界食糧計画)に対して、とても深い思い入れがあります。
デムナが12歳の頃、住む場所がなく山奥で困窮していた時に、WFPがヘリコプターでパンや穀物といった食糧を届けてくれたそうです。
25年という年月を経て、2018年のバレンシアガAWコレクションにてデムナはWFPとコラボレーションした作品を発表。
図らずも当時自分を救ってくれた支援機関とのコラボが実現することとなり、不思議な巡り合わせを感じたと語っています。
WFPとのコラボではトウモロコシを掴む拳が描かれたWFPのロゴと『Saving lives,changing lives(命を守る、生き方を変える)』というスローガンがプリントされたフーディやキャップなどを発表。
服の色やロゴの位置などデザインの決定にWFPも関わっており、形だけではない「本当のコラボレーション」が行われました。
ユニフォーム
Vetements2020AWより 引用fashion-press.net
ユニフォームも、デムナが手がけるコレクションにたびたび登場します。
社会主義により極端に自由を制限された幼少期を過ごしたデムナにとって、制服とは権威の象徴です。
同時に、食糧を提供してくれたWFPの人や、楽しい思い出のあるマクドナルドの店員が着ているユニフォームを見て感動した思い出からもインスピレーションを受けています。
デムナ自身も「ユニフォームに強い関心がある」と語っており、ユニフォームのもたらす強いメッセージ性を表現者として重要視しています。
ダメージや汚れ
引用vogue
デムナはこれまで、極端に汚れたスニーカーやボロボロのTシャツ、廃棄物のようなバッグを発表してきました。
これらの「ダメージ加工」や「汚れ加工」には、彼自身の難民として生きてきたバックグラウンドと、ファッションに対する思想が込められています。
そもそもダメージや汚れは、生きた証や歴史の痕跡として肯定されるもの。
しかし、ラグジュアリーの世界では、新品で完璧なものに価値があるとされています。
デムナはそういった既成概念に対し、あえてダメージや汚れを施し、「醜さ」や「不完全さ」の中に、価値やリアリティを見出そうとしているのです。
それは、難民や繰り返す移住、辛い思い出など、デムナ自身が“生き抜いてきた証”を反映していることでもあります。
また同時に、新品を買えない難民たちや、社会の片隅で生きる人々の現実を、幻想を売るラグジュアリー業界や消費者に伝えようとしています。
「使い古されたもの」「傷ついたもの」にも美しさや意味があると提案し、ファッションを通じて社会や消費文化への批評も行っているのです。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださりありがとうございます。
デムナ・ヴァザリアは「Vetements」「BALENCIAGA」のデザイナーとして、2010年代〜のファッション界を変えたと言っても過言ではないほどの影響力を持っています。
幼少期の壮絶な経験から着想を得た大胆なデザインと、世界に訴えかける強いメッセージ性を持つコレクションは、ファッションという垣根を超え、様々な業界からも注目されています。
デザイナーの歴史を知ることで、よりブランドに興味を持っていただければ幸いです。
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